このコーナーでは毎回、
雷門小福による自らの歩み、名古屋を中心とした芸界の話しなどを地道に紹介いたします。

第4回
落語との出会い。そして旅立ち。・・・でもこけた。
K 中学卒業後、すぐに名古屋青年劇団に入ったわけですねぇ。

小福(以降、小) そうそう。しかし名古屋青年劇団に入ったはいいけどもだな、こんなこったぁ飯も食えんし、第一に主役を獲るのも大変だしな。だでぇ、これから先、一番いいのは何だろうって考えてたらな。
 そうしたら、あずま中学校の演劇部の先生がな、「お前、演劇をやっとるそうやがな。どうだ、落語に興味はないか?」ってこう言うわけだな。

K はぁ、先生が? で、何て応えたんです?

小 「いやぁ別に・・・、ところで落語って何ですか?」って。

K アハハ・・・。

小 というのはな、当時名古屋に有名な“葵荘”という結構なお宝の要る料亭があったわけだな。そこに黒門町の師匠“桂文楽”が来るというんだな。

K えっ!! それは凄い。

小 そう。で、その先生が俺にだな、「切符が2枚あるからお前を連れてってやる」ってこう言うわけだ。で、生まれて初めてそこで落語を観たわけだ。

K 生まれて初めての落語が、黒門町!!

小 お座敷で!! ジャリ(子供)でそこにいたのは俺だけだもん。

K へぇー。で、ネタは何でした?

小 ぜんぜん覚えてない。

K はじめて観て、これが何のネタなんて分かるわけないですもんねぇ。

小 うん。分かるわけないもんな。
  とにかくその時の印象はだな、「何だぁ? これ、一人で返事をして、一人で相手して、一人で出来てこりゃええわ」と、そう思ったんだな。「いいなぁこれ。てめぇで返事して、てめぇでやってよぉ。嫌だったら辞めりゃええんだから」って。第一これが劇団だったらだぞ、病気で休むと他に迷惑かけたりするからな。

K ギャラも分けずに済むし。

小 そうそう。・・・。いや、そこまではまだ知恵がついてなかったけどもな。
  「じゃぁ、これに決めた」となったわけだ。

K えっ!! それで即決ですか?

小 うん、そう。「やるならこれだ!!」とな。そうすると、「さぁ、名古屋に落語の先生はいないか?」となるだろ。で、当時名古屋に“富士劇場”ってぇのがな納屋橋のたもとにあって、これが当時唯一の寄席小屋だ。ここ、大須の前にあった小屋だな。

4月上席にての着物也ィー。
本人曰く「変な柄!!」
(演芸場1号部屋にて 04.04.10撮影)

「仕立て下ろしやったらな、『今のは、変り目ですか?』って訊かれてまってよう。でも熱心に聴いてくれてありがたい」とコメント。
(左同)
K 大須の前にそんな定席が名古屋にあったんですか?

小 そうだよ。俺はそこにのべつ通うようになるわけだ。そこはな、漫才、奇術、落語などなど本当の演芸場なんだわ。落語が一日でおよそ3本くらいで、大阪からの漫才とかで12〜13本、あとは浪曲が入ったりする。

K 昼夜ですか?

小 もちろん昼夜。いつでも満員でな。で、俺が一番印象に残ったのが先代の“春風亭柳橋”な。そりゃもう「とんち教室」で一番売れてる時だからな。しかし、落語なんかぜんぜんやらんのだ。とんち教室の裏話!! これがまた受けるんだ。だからあの人は地方行くとそればかりやっとったんだ。たまにどうかすると、時そばだとか青菜だとかをやるわけだ。それも気が向けばな。
 でな、「そうだ、富士劇場で話しを聞いてもらおう」となるわな。で、その時、当時のそこの経営者はいなくてな、客分みたいな顧問が一人おったわけだ。お目付け役だわ。これが庄村っていうおとっつぁんでな、これがまたうるせぇ人でな。当時は極めて珍しい“アメリカ帰り”のおとっつぁんだったわけだ。

K 当時ですか? 戦後ですよねぇ、もちろん。それは珍しい。

小 そうだよ。今なら宇宙飛行士みたいなもんだわ。それが幅きかしとってだな、「すみません。社長に会わせてください」ったら、「社長は今おらん。何だ?」ってつかまっちまったわけだ。しかたないから「私、落語家になりたいんですけども。それらしい人を紹介してください」って言ったら、「何ィー!? いいか、芸人というのはだな、これこれこういうことで・・・」と始まって、アメリカの話しになってこれが止まらんのだな。
 で、その時の結論が「とにかく、芸人では食えんから辞めなさい」って言われて断られちゃったわけだ。で、それが今にも脳裏に残ってるから、俺んとこに弟子入り希望が来るとそれと同じことして断っちゃってたんだけどもな。

K なるほど・・・。

小 でな。そうしたらさっき喋った葵荘の近くに、“三遊亭小円歌”っていう落語家がいるっていうんだな。これが当時、名古屋唯一の落語家だっていうわけだ。 

K ちょと待ってくださいよ。では大師匠の雷門福助師匠は当時、まだ名古屋にいなかったわけですか?

小 いや、それがいたんだ!! いたんだけれども、旅館の主人として財産を持ってたから隠居を決めこんどったわけだ。

K はぁ、じゃぁ噺家は開店休業状態?

小 そうそうそう。名前は持ってるけど活動はしない。だから、そんな人が名古屋に居たなんて当時はまったく分からんわけだ。で、さっき言った小円歌師匠のところへ行ったわけだ。
 しかしこの人はだなぁ、先代の円歌師匠にヨイショをして名前をもらっただけの弟子だったわけだ。だから修行なんてぜんぜんしてない。銭の力で小円歌という名前をもらったわけだな。

K 単なるお旦ってことですか?

小 そうそう!! で、はじめはな「俺は弟子をとらない!!」とか言って断るわけだ。だからそこへ一週間通ったんだ。それも毎日。しかしよー、今考えたら、あんなところに行く必要なんかなかったわけだな。で、その後、「そこまで言うなら、ウチの場合は住み込みだぞ。」「ハイ、なんでも結構でございます。」ってな具合で、あそこの嫁さんと寝とったわけだ。
 ところがよー、この嫁さんがお久という元は芸者上がりでな。だからいろんなことに細かいんだな。掃除とかな。で、小円歌師匠の方はというと自分は修行なんかしたことがない。しかし東京の噺家と飲んだりして「この世界の修業というのはこういうもんだ」って話しだけは聞いてるから、それをそっくりそのまま俺に押し付けるわけだ。
 俺が「掃除、済みました」ったら、「んっ? 済んだか?」って言ってふすまの格子を触って、「(息を)フッー。んっ? これ何か分かるか?」「何ですか?」「何ですかってぇ、ほこりがついてるだろ。やり直し!!」

K 姑の嫁いじめみたいなことを・・・。

小 そうそう。あとはトイレな。あのトイレの黄ばみを手だ手!! 爪でひっかけって言うんだな。「いいか? 噺家とは、こういう修行をするもんだ」ってな。俺もよく手が腐らなかったもんだなぁ。

K うわぁー!!

小 それとか「このホウキが短いのはどうしてかわかるか?」「いえ、分かりません」「かがまなければ掃けないだろ。」

K 「よく頭が下がるように」と。インチキもいいところですね。

小 いいところだよ本当に。「かがんで低く世の中を渡っていくのだ」ってな。もう馬鹿馬鹿しくてよー。でも俺は1年、内弟子やったよ。

K 仕事はあったんですか?

小 無いよー。

K 稽古はつけてくれたんですか?

小 おう。一つだけつけてくれた。「寄合酒」をよぅ。それと「ボロタク」な。このボロタクは先代の円歌師匠がつけてくれたんだ。

K 小円歌師匠を経由してじゃなくて、直接ですか?

小 うん。まず小円歌師匠に教わったんだな。で、しばらくすると円歌師匠が富士劇場に来るわけだ。師匠が来れば我々二人は必ず挨拶に行くわけだ。で、ヨイショで自宅に招いてご馳走をするわけだ。で、その時に円歌師匠が「坊や。こいつに何か教わったのかい?」「えぇ、ボロタクを」「俺の前でやってみろ」「えっ・・・!!」って。で、ボロタクをやったんだ。
 そしたら師匠が「よし。じゃぁ、俺がやってやる」ってな。相当機嫌が良かったんだろうな。めったにないこったよ。丁寧にやってくれたよ。

K そうでしたか。良かったですねぇ。小円歌師匠だけでなく、ちゃんと本家から教わることができて。

小 で、その後に(小円歌師匠から)寄合酒を教わってな。
 で、ここじゃ仕事もないし「ダメだな、こんなところ」って考え直して、また富士劇場に行くわけだな。
壮絶なる似非修行を経験した後、小福のとった行動は如何に?
(続く・・・。)

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