昭和六十一年の小冊子“市町村あいち”に掲載されました
雷門小福寄稿の記事をそのまま掲載いたします。


ちょっとむかしのこと
落語家 雷門小福
 昭和も六十一年、昭和の初めに生まれた方が、おじん(おっと失礼実年層とも言います)と呼ばれるようになってきてしまいました。月日のたつのは早いものです。

 御幼少の頃、と言うと大層ですが、まあガキの時分、絵を書くことが大好きで、地面にはいずりまわって、白墨で汽車やら人形やら書いて遊んでいました。

 交通事情が只今とは違って、舗装された道路でも、車が少なかったからでしょう。小学校へ上がってから、図画のコンクールにはよく入賞して、金賞や銀賞を貰いました。忘れもしません、中学一年の頃でしたか、全国火災予防月間の防火ポスターに応募して、金賞の賞状を、全校生徒の前で、校長先生からいただいたことがあります。

 その表彰式の折り、確か下駄をはいていた覚えがあります。

 母親の下駄で、前の片方の前歯が欠けたので歩きにくく、もう片方もブッかいて、まるでハイヒールをはいたように、前のめりにつんのめって歩いていました。

 貧乏だったばかりでなく、その頃は物資不足で、今思うとひどい世の中でしたが、そんなことには少しもこだわらず、「よく学びよくあそべ」ではなく「よくあそびよくあそん」でいました。

 そのうちに、学童疎開(昭和一けた生まれも、後半の人が体験した極めて特異なこと)、岐阜県揖斐(いび)郡のお寺の本堂で、すきっ腹と火鉢をかかえて、かねて愛読した江戸川乱歩先生作る「怪人二十面相」とか「少年探偵団」のお話をすると、これが大変にウケて、木戸銭代りに、家族が面会のとき持ってきたお菓子の類を巻き上げたりしました。

 中学校に入ってから、演劇部で大道具のかきわりを描いたり、上演台本を書いたり舞台に立ったり、考えてみると、人よりも目立ちたい、また何か面白いことをして人を喜ばせようという気持ちが強かったのでしょう。

 卒業すると“画才”!を生かして、国鉄や私鉄の沿線や構内の看板を扱っている某広告会社に就職しました。

 ある日、中日球場(今のナゴヤ球場)で一番高い塔にある時計のセイコーの看板塗りかえ作業中に、自分で作った足場の縄がほどけて転落、ペンキを頭からかぶったのは、悲しい思い出です。
 今思うと、大看板(落語の方で真打ち、それも一人だけでも大勢の客を呼べる名人級をいう。)に挑戦したわけです。

 お勤めのかたわら、セミプロの劇団に所属し、仕出し(通行人AとかBの端役)に出演したりしていました。それでも二年位たった頃、“ビルマの竪琴”の兵士の役をした覚えがあります。

 『神様の目から見れば世界は芝居小屋で、人間はみなそれぞれ役割を演ずる役者にすぎない。』有名なシェイクスピアの名言に心を打たれ、好きな芝居にいそしんでいるものの、よくよく考えれば、御承知のようにお芝居は大勢の人が協力して、よい芝居が出来る、縁の下の力持ちが居てこそ、主役が脚光を浴びる、あだやおろそかではその主役になれぬものと知り、一人で出来ることは何かないかと思い、落語家になる決心をしました。


 雷門福助師匠の所へ弟子入りしたのが丁度二十歳の年の暮れでした。

 最初は内弟子ということで、当時師匠が経営していた旅館、今でいうとラブホテルに住む込み、掃除したり、風呂を沸かしたり、所謂“男衆”みたいな仕事をして、肝心の落語の方はちっとも教えて貰えません。それでも修行の甲斐あって二年程たってから「雷門小福」という名前をいただくことが出来ました。

 落語の方では、“三遊亭”とか、“春風亭”“柳家”“桂”等が有名で、“雷門”はおなじみでないかもしれませんが、なかなかどうして、これは大変な名門で、そのむかし市川団十郎とは格別のおつきあいがあったそうです。

 と申しますのは、有名な歌舞伎十八番のうち“助六縁由縁江戸桜”の金はなくても女にもてる花川戸の助六は、実は曽我五郎ということから、市川家のごひいきをいただき、三升と杏葉牡丹の紋を、紋付や手拭いに使うことを許された位ですから驚きます。落語の方の助六も前名が五郎で、住んでいる所が花川戸というんですから、ますます驚き。

 「小福」は福助の弟子、初代はのちの立花家米蔵(昭和四十年頃没、音曲ばなしが得意)、二代目が今の都家歌六(落語のレコード蒐集でも有名)、私が三代目を襲名することになりました。

 襲名披露公演で苦労して売った前売り券の代金をそっくり某プロダクションに持ち逃げされて、「大看板」への道はけわしく遠いとつくづく悲哀を感じました。

 ご当地に寄席がなかったため、落語を高座ですることは殆どなく、歌謡曲の司会や漫談をしていたのですが、その頃ラジオ番組で「浪曲天狗道場」がヒットしましたので、浪曲師、曲師二・三人で、素人のお客様が出演する「浪曲のど自慢」の司会で旅興行をしたことがあります。

 中部各県をまわるのですが、大抵はその小屋の楽屋で寝泊りすることになる。私共の言葉で「雑用」(ざつよう)つまり旅興行の際の食費を含む宿泊料が大変に悪く、壁は落ち、たてつけは悪く、畳はボロボロ、床の抜けた所もあるという有様。

 ふとんは引幕や、のぼりの古いのを利用したもの、寝ている姿がまるで鯉のぼりのお化けのようでした。

 おかずはいつもがんもどきや芋の煮っころがしで、今思えば大変な修行の場で、がんもどきとおいもには感謝している次第です。

 そのうちに、そんな暮らしがいやになり、その頃は公けに認められていた遊郭に泊まることを思いつきました。

 これはまことに住み心地のよろしいもので、行く先々の色街で、若さにまかせて、夜ごとに変わる枕の数・・・・・ところがこんなことは長続きするわけがなく、大ざっぱに計算してみても、お泊りが八〇〇円、私の日当が五〇〇円ではマイナス三〇〇円でたちまち大赤字。うちの師匠に言わせると、「東京の助六にしろ、あたしにしろ若かった時分は女にもててもてて、一晩で二、三人の女性から呼び出しがかかって困ったものだ。それもお前みたいに金払うんぢゃねえぞ。御祝儀が向こうから出る。かけもちの工夫を教えてやろう。ふところに香典袋を入れて、せんくちの女性と何してからそれを見せ『ゆっくり泊って行きたいけれど、友達の所へお通夜に行かなきゃならない』と言えば、そりゃ仕方がないわねってことになるので、あとくちの女性の所へおもむく。解ったかい。お前さんも雷門の一門として、恥ずかしくないようにしておくれ」どうも、そんな器用なことが出来る筈もない私はしばらくして、やはり師匠の所で働いていた“花子さん(本名)”をかみさんにしてからは色めいたことはちっともなく(これはタテマエ)暮らしています。


 福助師匠に聞いた話でもう一つ。

「人間いろんな苦労をしてみなけりゃ、世の中のことが解らない。私もお前さんに負けない位貧乏な暮らしをしていたが十四、五才のころ“法学士”だった。」法学士と云えば法律を勉強した大変に偉い人だと思うので、意外な顔をしていると、「昔あった固型の洗濯石けん、羊羹を大きくしたようなのを切って使う。あのインチキ品を売り歩くことだ。一日二日たつと、小さくなってしまい、もちろん泡も出なけりゃ、汚れも落ちない。こういうものを専門に作っている所があって、そこでまとめて仕入れてくる。車に積んで引っぱって長屋を売り歩く。

 『今これを運んでる途中で荷が崩れて土がついたり角がへっこんだりして、店へ帰ったら主人に酷く叱られます。お安くしときますから買って下さい。』と前もって土をつけたり、へこませたりしたものを、人情の厚い長屋のおかみさんに売りつける。翌日、売りに行くのに、昨日の所はもう二度と行けないから、方角を変えて別の方へ売りに行く。だから“方角士”」


 福助師匠が「名芸互助会」(在名の芸人の相互扶助団体)を作ったのが三十年近く前、その頃は芸人さんも一〇〇人近くいて私もよくそのお手伝いをしたものですが、時代と共にその数も減り、今では数える程になってしまったなかで八十五歳の師匠が、落語界のシーラカンスと言われて、元気に高座を勤めているのを見ると、弟子たるもの怠けてはおれないなあと思いながら、過去を振り返ってみました。
 よく落語の枕(はなしの本筋に入る前にする部分、料理に例えればオードブル)に使う小噺を一席いたします。

 落語の方でよく運不運ということを言いますが、運の良い奴と悪い奴とはえらい違いで、芸人なんかにはそれが随分影響します。トントンといった人と、実力があって売れん奴と、まあ運の良い人と、悪い人とは、一寸したところで違います。

 会社へ行こうとして出しなにトイレへ行きたくなった。用を足して出て来ると電話のベルがなった。普通なら間に合わないところがトイレへ入ったために、この電話に出ると、取引先にいる友人からで、大きな商談で何十億円の取引が成立したため、抜擢されて、後に社長になるという。

 この人は小便のおかげでえらくなったんだから、便所に鳥居を立てて拝まなけりゃいけない位のものです。

 運の悪い人になると、出社前のトイレへ行って、出てきたところへ電話のベル、これがくだらないことを、長々としゃべる。

 むげにことわれない相手なので、相手をしていて、バスに乗り遅れ、会社に二十五分遅刻、社長ににらまれて、次ぎの異動には左遷、やけ酒を飲みすぎたためか、にわかの腹痛、やっと来た救急車が途中でパンク、たどりついた病院では手術の最中に停電になってしまったという。この運の悪さ。皆々様は、どうか本年、運の良い年にめぐり合いますように。

プロフィール

落語と司会漫談 雷門小福
昭和九年四月二十一日 名古屋生まれの五十歳
昭和二十七年二月  三遊亭小円歌師入門 島一声の芸名にて芸界入り
昭和二十九年  雷門福助師入門
雷門小福襲名披露後、NHK土曜演芸館、民間放送等出演。
各地、司会、漫談落語等にて巡演(名芸互助会役員)
昭和五十年一月  小福襲名二十年記念公演を愛知文化講堂にて開催
昭和五十一年〜五十九年  ミス・ナゴヤ発表会の司会、演出
昭和五十三年三月  大須演芸場自主公演、レギュラー出演
昭和五十四年六月 ネェティヴェヘアー専属CM
昭和五十九年四月 東宝名人会出演
昭和五十九年八月  東京国立演芸場出演
現在、名古屋芸能人協会副会長
落語レパートリー
 湯屋番、寄り合い酒、花色木綿、縁日(秘伝書)、ボロタク、フラスコ(新作)等

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