とある雑誌で特集された記事を掲載します
関西芸人シリーズ 雷門小福(落語家)前編

独特の雰囲気のある高座で落語界の重鎮に!!
“金儲けがしたくてこの世界に入った”というユニークな落語家人生とは
●幼い頃から話上手で絵の才能もある目立つ存在●
 芸能企画「小福プロ」杜長で、名古屋芸能人協会副会長などを務め、昭和53年3月から名古屋・大須演芸場でレギュラー出演している地元出身の落語家が雷門小福さんだ。
「客足を止めるために『たくあん石を号令で2メートル持ち上げます』などと吹くんです。そして『ここは天下の大道だ。見たところ、人相が悪い方が2〜3人おられます。スリです。私が喋っている間にこっそり帰っていった人がスリです。』と言ってお客さんを帰さないようにします。
 さぁ、ここからが商売です。『電気がなくても明るくなる方法』『酒なくして酔える方法』『電気釜などがなくても御飯が炊ける方法』『切符をなくしてタダで電車に乗る方法』『ひと月300円で食える方法』『絶対水に溺れない方法』の6つを書いた本を500円で売ると言っています。
 家に帰って読むと『電気がなくて明るくなる方法』は“夜が明けるのを待て”。『酒なくして酔える方法』は“ビールを飲め。ウィスキーならなお良し”といった具合です。『電気釜などがなくても御飯が炊ける方法』は“鍋で炊け”ですし、『切符なくしてタダで電車に乗る方法』は“車掌になれ”です。『ひと月300円で食える方法』は“ところ天を食べろ。一突300円”。『絶対水に溺れない方法』は“裸になってヘソの周りに墨で印を付けろ。それより深いところに入るな”。なんだぁこの本は、と著者欄を見ると、
参議院議員・新○正○と書いてありました」
 こんな話芸で人気を集め、湯屋番、花色木綿、仕立ておろし、秘伝書、寄り合い酒、フラスコ、名古屋弁落語といった落語レパートリーを持つ小福さんは、もともと劇団員の青年だった。
 それ以前は画家志望の少年で、様々な紐余曲折を経て、地元の大物落語家へとのし上がってきたのだ。
「僕は昔から名古屋市東区で生まれ育ったんですが、小4のときに、岐阜県揖斐川町の寺に集団疎開へ行ったことがあったんですよ。うちは貧乏で親が年2回ぐらいしか面会にきてくれなかったですね。他の友達は3ヵ月に1度くらいは面会にきていましたから、そのときに差し入れられるおやつを目当てに、僕が江戸川乱歩の少年探偵団なんかを脚色して聞かせるんです。火鉢の周りに10人ぐらい集めて『話をしてやるから菓子を出せ』と言ってね」
 この頃から小福さんの話好きは始まっているようだ。
 学校に戻ってからも、教壇で映画のストーリーを話して聞かせたこともあった。戦後で男子児童が全員が坊主頭の中で小福さん一人だけが小6から長髪にした。
 中学になってもそれは続き、「このクラスのステ(小福さんの当時の愛称)ってのはどいつだ」と教師から教室に入るなり名指しでチェックされる子供として小福さんは育った。
「中学の頃は絵が好きだったんですよ。中1のときは全国防火ポスターコンクールで入賞したこともあったし、描くたびに最低でも佳作を貰っていた。絵の宿題が出ると、僕は友達の分も10人分ぐらい描いてまし
たからね。図画会所属の中条茂という写実派の先生と、春陽会所属の上原欽二という抽象画の先生が僕の中学時代の絵の“師匠”でしたね」
 絵の才能を活かして友達が生徒会選挙などに出馬すると、さっそくポスターを描いて取り持ちに回った。
 はりぼてをかぶらせて廊下を歩かせたり、朝礼の最中に屋上からタレ幕を下ろしたり、「一番目立つように」と女子トイレにポスターを張ったところ、「選挙違反だ!」と問題になったこともあった。

●子供を集めて繰り返し話を聞かせ落語の練習を●
「僕はもともと絵の方に進む予定でしたが、中2の初め頃、演劇部のバックを描いてやっていたら、たまたま劇団員に欠員ができたんです。『それならオレがやってやろう』と代役を務めたところ、それに病み付きになってしまって、あげくに部長にまでなってしまったのです」
 同演劇部には小福さんと入れ違いに入ってきた3年下の後輩に現在、ラジオ番組などで活躍中の天野鎮雄(あまちん)がいる。
 小福さんは中学卒業後、昼は看板屋の仕事をしながら、夜はセミプロ劇団『名古屋市青年劇団』で芝居の勉強をしていた。「看板屋の仕事をしていたときにね、中日球場の塔に足場を組んでのぼったことがあったんですよ。僕は高所恐怖症でね、それに足場がいいかげんに組んであったため、転落して腰にケガをしたんですよ。それがきっかけで看板屋を辞めました。
 その後はどうやって食おうかと考えました。劇団では主役を取るのも大変で、そんなんで食えっこないことも分かっていましたから、一人で舞台に上がって金儲けができることは何かということを考えたんです。その結果、落語家ということになったんです。
 よく多くの噺家さんたちは『自分は好きで好きで仕方なくてこの世界に入ったんだ』というようなことを言いますが、私の場合は金儲けがしたくてこの世界に入ったんです」
 こうして小福さんは昭和27年2月、地元のセミプロ噺家、三遊亭小円歌門下に入門した。“島一声”という芸名をもらい、噺家修行に打ち込むことになった。
 当時の小福さんの練習相手であり、お客さんは寺などで遊んでいる子供たちだった。 セミ捕りなどに来ている子供たちを欄干などに集めて繰り返し、繰り返し、同じ話を聞かせるのだ。「最初は子供たちもおもしろがって聞いてくれましたが、次第に飽きてきて僕の顔を見るだけで逃げ出すようになってしまったんですよ。
 僕は逃げる子供を取っ捕まえて『そんなこと言わんと聞いてくれ』とまた同じ話を聞かせるんですよ。
 そんなことをやっている間に、僕が稽古場として回っていた5つの寺は、『またあのオジサンがいる!』とことごとく逃げ回られるようになってしまいました」
 しかし1年後、もっと抜本的な問題に気付いた。三遊亭小円歌師匠のもとには仕事がないのだ。いくら修行してもこれでは“金儲け”ができない。
 そこで小福さんは師匠の了解もとらないままに黙って上京し、弟弟子の三遊亭歌奴のもとを訪ねた。
 そこで断わられ、さらに名古屋へ強制送還される羽目に陥っていくことも知らずに・・・。
(以下次号へ)
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