とある雑誌で特集された記事を掲載します
関西芸人シリーズ 雷門小福(落語家)後編

高座のかたわら芸能プロ社長として大活躍!
旺盛なバイタリティーで落語だけでなく名古屋の芸能界を仕切る存在に!
●全ブス連の反対で仕切ってたミスコンが中止に●
 昭和28年頃、三遊亭歌奴のもとを訪ねた小福さんは、師匠の歌奴の兄弟子にあたる小圓歌の了解なしに上京したことをとがめられ、
「兄さんの了解なしに預かるわけにはいかん。この世界の御法度だ。了解を得てからこい」
 と型通りに断わられてしまった。
 しかたなく小福さんは地元でウロウロするうちに、パチンコ屋の住込み店員として働くことになった。
「当時は芸人の間では当たり前のようにヒロポンが流行ってたんですよ。
 僕も例に漏れずで運び屋などをやっているうちに浦和で取っ捕まっちやった。それで名古屋の親元に強制送還されちゃったんです」
 名古屋に戻ってきてからは再び、小圓歌師匠の弟子として復帰するのだが、突破口は意外にも地元で見つかった。
 小圓歌師匠のマネージャーとして出入りしていたI氏が地元新聞社「名古屋タイムズ」と深い交流があり、小福さんはそのツテで雷門福助師匠と知り合ったのだ。
「福助師匠の実家は旅館なんで。早い話が旅館のオヤジだったんです。
 深夜3時に寝て昼12時頃起きるという生活をしていました。
 I氏と2人で会いに行ったんですが、2つ返事で『弟子入り?いいよ』とOKをもらい、感激して酒を持って行ったところ、その場で“雷門小福”をもらって襲名しちゃいました」
 昭和29年2月のことだった。そして小福さんは雷門小福襲名披露後、NHK土曜演芸館や民間放送などに出演することになり、各地も巡演した。
 昭和35年3月には芸能企画「小福プロ」を設立して、これで小福さんも一企業体の社長となった。
「30代、40代はひと花咲かせようとTV局にコネを作ったり必死でしたね。
 小福になって20年記念公演を愛知文化講堂で開催したのは昭和50年1月、僕が40歳のときでした」
 この後、小福さんは名古屋タイムズ主催の「ミス・ナゴヤコンテスト発表会」に、なんと12年にわたって携わっていくことになる。昭和51年から平成元年までの12年中10年は小福さんが企画、構成、司会とすべて仕切っていた。
 しかし名古屋に本部を置く「全ブス連」の抗議事件を発端としてコンテストがなくなってしまったのだ。
「最初の1年は見てただけらしいんですよ。
 その次の年に10人ぐらいがしゃもじを持って楽屋に殴り込みに現れ、『何の基準でミスを決めているんだ』『我々の血税でコンテストとは何事だ』というわけですよ。
 その場は何とかまアまアということでなだめて終わったんですが、そのときの市長、本山さんがこの一件で自重方針を決め、翌年から廃止されたんです。市の予算を使ってましたから、市の姿勢も分かるんですが、僕も『全ブス連』なんてのがあるなんてそのときまで知りませんでしたから、そらあ驚いたもんです」
 名古屋人は誰もが知ってる年1回のミスコンで、優勝者には姉妹都市のロサンゼルスでパレードなどの特典もあったのに、実に残念無念である。 それは10年ものあいだ仕切り人だった小福さんがもっとも感じているところだろう。

●名古屋芸能界の重鎮だが弟子を取らない主義!●
 小福さんが社長を務める「小福プロ」では司会、漫談、落語、奇術、漫才、曲芸、浪曲、歌謡曲、チンドンマン、郷土芸能、楽団編成などの他に“ヌードショウ”という興味深い業務内容がある。
「僕の後輩で地元ストリップ劇場のオーナーがいるんですよ。 お寺で子供を捕まえて落語を聞かせていた頃のこと、そのオーナーにも頼んで“幕引の10分だけでもやらせてくれ”と交渉して、『客が怒って帰る』とイヤがられたんですが、“オレも裸になるから”と冗談で口説いて、本当にストリップ劇場で落語をやり、客とも馴染みにをりまし
たよ。というわけで僕はストリップ劇場で落語の勉強をしたパイオニアですよ」
 それが影響してかどうかは不明だが、実際に小福さんは踊り子を調達して企業の新年会などで“ヌードショウ”を見せる企画もある。「ある銀行幹部を集めた新年会
で、『何かショーを見せたいが』と相談されたので、ヌードショウを提案しました。
 そしたら担当課長が怒って、『ヌードなんてダメだ!』と言いましたが、アルコールが入っている立場なら女の話で怒る人はいない、苦情が出たら責任を持つしギャラもいらない、と会議で報告させたら、『けっこうけっこう。ヌードは一番いい』と会長が言ったそうなんです。
 そこで、ヘビを体に巻きつけるおめでたい女の子がいると紹介すると、『高くても構わん。その女の子を入れてくれ。会長がこられるのに絶対引けるか』と課長の態度が180度変えて、お願いに来ましたよ(笑)」
 また、ある製菓会社の新年会では“ヌードショウ”を出し物にすることが決まったが、「社長の手前、全裸だけはやめてくれ」
 と懇請され、仕方なくパンティを付けて踊らせていたところ、肝心の社長が、「おい!あの三角のやつ(パンティ)はいつ取るんだ?」とクレームが入り、またしても担当していた課長がすっ飛んできて、「脱いで下さいっ!」
 ということだった。
 小福さんは昭和55年より名古屋芸能人協会副会長、昭和62年より名古屋弁を全国に広める会相談役を務めている。
 さらに昭和59年には東宝名人会、国立演芸場に出演したこともあった。
 そんな名古屋芸能界の重鎮だが、小福さんは弟子を取らないのだ。
「以前に、弟子入り3ヵ月で、僕の靴も背広も下着もみんな持ってドロンしたやつがいるんです。
 朝起きたらないんですよ。それですっかり懲りちゃったんです。
 来ても1カ月も続かないし、育ってもいなくなっちゃう。前に大学を出たばかりの男が弟子入りに来たんですが、断わったんです。その後、広告代理店の社長になったという男がいましたよ。
 10年ほど前に突然、電話をかけてきて、『1度遊びに来て下さい』というので出掛けていったら、名古屋の一等地に会社を持ってるんですよ。
 そこで、“オマエ、ウチなんかに弟子入りしとったら社長どころやないぞ”と笑ったこともありました」
 今では可愛い孫もいる小福さん。芸人1本で妻子を養い切ったのはおよそ小福さんだけらしい。
「孫に『TVゲームばかりピコピコしないで、外で何かして遊んだら』と話したら、『だっておじいちゃん、どこで遊んだらいいの』と突っ込み返されて、答えに窮してしまった。
 僕もずっと名古屋で生まれ育ってるけど、そういう面で今の子供たちは可哀相だね」
小福さんの舞台は名古屋大須演芸場で見ることができる。
[おしゃべり館TOP]