岐阜県関市&各務原市の情報誌
にらめっこVOL.104(2005年3月号)”の、
 あなたにエール!でのインタビューをそのまま掲載
(Thanks for マザーハウスing)
◆落語界の風雲児を目指して◆
●子どものころから落語が好きだったのですか?

 僕の子どもの頃は漫才ブーム全盛期でした。当時のテレビのお笑い番組が好きでよく見ていましたが、同じお笑いとはいえ、落語を意識することはなかったんです。「ではなぜ落語に?」ってことになりますよね。最近は大卒でこの道に入る人がほとんどのようで、僕もその一人。在学中は落語研究会に入ることもなく、大学院を中退してサラリーマンをしていました。でも、「自分に向いてないなぁ」と思いはじめた時に立川談志師匠の落語を聞いて衝撃を受けたんですね。で、サラリーマンをやめて26歳でこの世界に入りました。もともと運動神経よりも口先神経の方が発達しているもんだから。
 遅い入門でしたが、自分にとってはそれがよかったですね。というのは芸の世界は特殊な世界。普通の社会人がどうやって日々生活を送っているのかを経験したお陰で、今いる世界を多少は客観的に見ることができますから。それはともかくとして入門の際、落語が好きで入る人と、師匠の人柄や芸に惹かれて入る人がいるんですけど、自分は後者だった。惹かれた人が落語家で、その門下に入るわけだから当然自分も落語家にならなきゃいけない。それで今日も落語家を続けるわけですね。

●なぜ談志さんを選んだのですか?

 特異なキャラクター、流行に媚びないというか。己の考えを持っている。またその考え方に共鳴する部分があったのですね。世間の忘れがちな「伝統を大切にしよう」という考えに。
 落語の中には同じ日本人が忘れちゃいけない“何か”が含まれているはずなのですね。「サラリーマンは向かないな」って思ってるときに談志師匠の古典落語を聞いてスポーンとはまったわけです。師匠がいわんとする思想的なね、落語で追い求めるスタイルというものにいまだに共鳴してますよ。

●師弟関係というのはかなり厳しいですか?

 談志師匠は厳しかったですね。芸だけでなく生き方においても。芸で言えば、正統派スタイルの落語をきっちりやるようにと。前座という半人前の身分の間は、基礎を身につける意味において当然のことなのですけどね。よって人気商売にとって不可欠な個性的表現というのは遠い先の話になるわけですね。厳しさに地味さも加わりますから、そう簡単には生活も成り立ちません。当然葛藤はありましたけどしかし、師匠の言いつけは絶対ですから。またそれを百も承知で入門してたわけですからね。
 仮にそれが嫌になって「ここを辞めて、あの師匠のところに移りたいのですが」ってのはこの世界では許されない。師匠に破門宣告された場合は移籍できますけどね。これは落語の世界の古くからの不文律なんです。ですから人生を賭けられる人を自らの師匠に選ばなきゃいけない。舞台に上がる前からその人のセンスが試されている。そういう世界なんです。
 実は平成14年5月に、当時前座だった僕も含まれた全員が、談志師匠に破門されたんですよ。理由は「お前ら不勉強だから」と。談師門下では歌舞音曲つまり、端唄、踊り、お囃子の太鼓、加えて講談などができないと「一人前とは認めない」と言われてまして。
 そもそも談志師匠が落語協会を飛び出して新たに作ったのが立川流という独立団体。老舗の協会との違いは昇進の決め方にあります。老舗団体が年功序列で昇進を決めるのとは異なって、家元の談志師匠がその技芸を認めるか認めないかで昇進が決まります。老舗団体への対抗の意味もそこには含まれますから、ここでの判定は当然、真剣勝負になるわけですね。

●クビになってどうされたのですか?

 破門宣告から丸一年後に全員で復帰をかけた試験を受けまして。結果は、一人受かって残りは不合格。僕は不合格組。この時点で立川流への復帰は断念しました。同じ不合格の一人の兄弟子と行動を共にして別の場所での活動を考えました。
ところで現在、東京の落語界には四派あって、老舗では落語協会と落語芸術協会。そして独立系で円楽師匠が率いる円楽党。そして僕が門を叩いた立川流。
クビになった人が落語を続ける場合、普通は他の三派のいずれかに移るか、思い切って大阪に行くか。これが普通ですね。しかし僕らはあえて「名古屋に行こう」って決めたんです。談志師匠はいまだに首かしげてるって聞いてますよ。「普通は上方(大阪)に行くだろう。何で名古屋だ?」って。

●名古屋を選んだのは何故?

 第一にふるさとがここにあること。第二に大須演芸場っていうホームタウンができること。もう一つは東京での過当競争から抜け出すことですね。この決断が功を奏すかどうかは、やってみないと分かりません。
 演芸場での出演のお陰で喋る場所ができた。誰もいないところで百回稽古するよりも、たとえお客さんが1人や2人であっても、舞台で喋る方が勉強になります。立川流にいた時と大きな違いは、舞台に立つ回数が格段に増えた点にあります。立川流にいた時の舞台数は月に約4〜5回。それが名古屋に来てからは、演芸場だけでも月10日間出演。平日は1日2回、週末は3回ですから。それに他所でも呼んでいただくと、月に30回くらいになるんですよ。舞台数が増えると度胸がつくし、引き出しも増えますしね。蓄えができていくんですね。特に10年未満のキャリアの者にとっては。ね。

●新しい師匠はどういう方ですか?

 今の師匠は御年70歳の雷門小福師匠です。この方が唯一名古屋のプロの落語家として、名古屋落語の牙城を守ってきたわけですね。この方がいなかったら我々は名古屋に来れませんでした。というのは、プロとアマの違いは師匠がいるかいないかなんです。落語家系図の中に自分の名前が、たとえ末席にでも
刻まれなければプロじゃないということになってしまう。
 今、私が名古屋で落語をやれるというのは二つの奇跡のお陰なんです。大須演芸場という“奇跡の寄席”が残ってたということ。そして、プロの落語家が名古屋に“奇跡の芸人”として一人だけいたということですね。

●これからも名古屋で足を踏ん張っていかれるんですね。

 ええ、もちろん。名古屋は国際空港も出来て、万博もやって、ドラゴンズもあれだけ人気があるんだけども、こと演芸、落語などに関しては「いや、どうも・・・」ってなことになるようで。
 落語の需要は全国的にあると思うんです。でも大きな勢力は東京と大阪に限られて。不思議といえば不思議ですよね。名古屋は東西に競り合えるだけの都市を形成する一方、こと落語に関しては東京、あるいは大阪からやって来る落語家を押し頂くしかないわけですね。名古屋という都市の身の丈に合うだけの勢力にしたいというメッセージを送らないことには、と思ってるんですけども。

●一回一回が全力だと思うんですけど、「あ〜どうしよう」って思ったことはありますか?

 最近はようやく修羅場で緊張しなくなった。舞台袖で「ああこれは修羅場になるなぁ」ってのがわかるわけですよ。この間とある神社で、おじいちゃんおばあちゃんの昼食時に舞台に上がってお賑やかしをって仕事があったんですよ。食事しながら人の話を聞くわけがない。そんな舞台を東京時代にやらされてたら、舞台で何も出来なかったでしょうね。ところが大須演芸場に月30回とか出てると、「よし今日はこのやり方でいこう」と、だいたい適用できるようになってくる。決してうまくはないですけどもね。東京でそういうふうになれたかっていえば絶対になれない。「こちらは落語家でございます」と正統派の落語をやるだけではお客さんの興味は得られない。それは東京も大阪も名古屋も同じです。でも落語家としてやってる以上、正統派の型はどっかで保ってなければいけないんですね。「お前、それが出来るのか?」って、試されたときに「やれば出来る」というのが一番でしょうね。要は使い分け。正統派という“真剣”を隠し持ちながら、常に研いでおかなくちゃだめでしょうね。一人静かにね。
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